SCOOP 2020:勝者が最も多かった国は? 国ランキングの発表!

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SCOOP 2020 勝者国ランキング!

順位 優勝回数
16位 1 ���� カザフスタン ���� スロバキア ���� 北マケドニア ���� 韓国 ���� チェコ ���� マカオ ���� キプロス ���� スロベニア ���� ベトナム ���� タイ ���� モンゴル ���� フィリピン ���� バルバドス
15位 2 ���� ベルギー ���� 日本 ���� ウルグアイ ���� ブルガリア ���� ルクセンブルグ ���� モルドバ ���� ラトビア
14位 3 ���� ペルー ���� クロアチア ���� デンマーク
13位 4 ���� レバノン ���� マルタ
12位 5 ���� ベラルーシ ���� 中国 ���� ポーランド ���� リトアニア ���� アルゼンチン
11位 6 ���� ギリシャ
10位 8 ���� ハンガリー ���� ルーマニア
9位 9 ���� メキシコ ���� アイルランド ���� フィンランド
8位 13 ���� ウクライナ ���� ノルウェー
7位 14 ���� スウェーデン
6位 16 ���� オーストリア
5位 22 ���� オランダ ���� カナダ
4位 25 ���� ドイツ
��3位 37 ���� ロシア
��2位 45 ���� ブラジル
��1位 46 ���� イギリス

あれ? あの国は?

1位はイギリス! ちょっと以外に思ったのはワタクシだけ? 日本人の優勝はSCOOP 2020を通して2回ありました。

よくみると、あれ? あの国は? という疑問を持った方がいらっしゃるのでは? 例えば、アメリカ、オーストラリア、イタリアなどです。

アメリカはニュージャージ州を除いて、オンラインポーカーはバンされています。同じくオーストラリアも。というわけで、Connor “blanconegro” Drinan/コナー “blanconegro” ドリナンなどは、アメリカ人でありながらメキシコを拠点としてプレイしているのです。

イタリアはイタリアに住む外国人の場合、条件をクリアーすればプレイできますが、イタリア人はダメ。なので、ハイローラートーナメントで強さを見せるイタリア人ポーカープロ、Dario Sammartino/ダリオ・サンマルティーノなどもプレイできないと思われます。

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SCOOP 2020:勝者が最も多かった国は? 国ランキングの発表!

​「Gold standard​​​」を日本では「金本位制(きんほんいせい)​」​ と訳しますが 、国の貨幣の基準を金に置いて価値を決める やり方です。​​

幕末当事、アジアではメキシコ銀が流通していた事から国内ではメキシコ銀(8 レアル銀貨)と同質量の本位銀貨を発行した方が良いと言う「Silver standard(銀本位制)」の考えが圧倒的。

​ 日本の「Gold standard(金本位制)」を強く押したのは伊藤 博文(いとう ひろぶみ)(1841年

​結果、 ​​ 伊藤 博文の言うように 明治政府は「Gold standard(金本位制)」 を採択。補助銀貨としてメキシコ銀と同質量の一圓銀貨を発行し、貿易決済用銀貨として使用される事に決まった​​ そうです。​

​​​かくして、 1871年(明治4年)、新貨条例(明治4年太政官布告第267号)が発布 され、最初に銀貨、そして金貨が発行される事になった。
​​ 本位金貨 は、1円、2円、5円、10円、20円​​ 。

​​同時に 1​円銀貨と貿易銀貨(一圓)​が発行 される。​​

​​さらに ​補助貨幣​ として、 ​​ 補助銀貨 (5銭、10銭、20銭、50銭)。 補助銅貨幣 (2銭、1銭、半銭、1厘)。​​ が発行されることに決まった。​​

大阪天満の造幣局​ 3 コイン製造とギザの話

​明治初期の貨幣の柄 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)​と 龍

明治初期の​​貨幣の柄 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)​と 龍

明治3年発行 20円金貨 写真はウィキメデイアから借りてきました。

直径35.06mm 量目33.33g 品位 金90 銅10 表 龍 裏 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)

​ 現在と異なり、明治初期の金貨 2円、5円、10円、20円 の絵柄はサイズが違えど額面以外は同じ なのである。​

​では何が違うか? 絵柄の出方である。 小さくなればなるほど絵柄は不鮮明になるのが実状 。​

明治3年発行 2円金貨 写真はウィキメデイアから借りてきました。

直径17.48mm 量目3.33g 品位 金90 銅10 表 龍 裏 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)

​​ 明治維新の際 には、赤地の錦に日月紋、または菊花紋を描いた二種、「 菊章旗」と「日月旗」が ある。​​

​​ 太陽をかたどったしるし 。日の丸のしるし。 白地に赤の日章をあしらったのが現在の日本の国旗 。
1870年(明治3年)太政官布告で日本の商船が掲げるべき旗と定められ、後に上国旗となる。
因みに、 ​日章(太陽)がさんさんと輝くように光条(旭光)が付いた意匠を「旭日(きょくじつ)」と呼ぶ。​​​

​ ​ ​デザイナーは彫金師 加納夏雄(かのう なつお) 造幣博物館で撮影

1898年)​​​
明治維新後に皇室御用人となり、明治天皇の太刀の金具を彫刻した加納夏雄(かのう なつお)に1869年(明治2年)、白羽の矢が立つ。​

​ 彼のデザインした貨幣の原画はお雇い外国人らも感嘆し、当初イギリスに発注するのを取りやめて採用 。
1875年(明治8年)、退官。値付けなどの彫彫金師に戻るが、 ​明治期の貨幣のデザインは加納夏雄とその門下生(益田友雄)の仕事だそうだ。​

黄色・・金貨 青色・・銀貨 赤色・・龍の絵柄 オレンジ・・ 錦旗(きんき)・日章(にっしょう)
※ 上の資料は見学ツアーの時にもらったもの。コインの重さや品位などはこの資料から紹介しています。本家ですから間違いないでしょう。

明治3年発行 1円銀貨 写真はウィキメデイアから借りてきました。

直径37.57mm 量目26.95g 品位 銀90 銅10 表 龍 裏 日章(にっしょう)
.
明治7年発行 1円銀貨 写真はウィキメデイアから借りてきました。

直径37.57mm 量目26.95g 品位 銀90 銅10 表 一圓 裏 龍

下は上と同じ明治7年発行 1円銀貨 造幣博物館で撮影

量目26.957g 直径37.575mm 品位 銀90 銅10

明治8年発行 1円銀貨 (貿易銀) 造幣博物館で撮影

量目27.216g 直径37.575mm 品位 銀90 銅10

​冒頭に 「Gold standard(金本位制)」の話をしましたが、実際には金貨が足り無くて銀貨が代わりを務める自体になる のである。​

​​その為に 1878年(明治11年)から日本国内でも一円銀貨の流通が認められる 事になったのです。​

​金準備が不足し名目と化した 金本位制の下で、銀が事実上の本位貨幣になっていた のである。​

明治13年発行 1円銀貨 造幣博物館で撮影

量目26.957g 直径37.575mm 品位 銀90 銅10

当初種印はコインのサイズと同じ小さい物。前出の ​ 加納夏雄(かのう なつお)を筆頭にする彫刻所で、直接タガネから手作業で掘り出していたそうです。 ​

因みに、当初、種印は ​海​外に発注する予定が​加納夏雄(かのう なつお)の腕前に日本で造る事が決まったようです。​​

上・・直彫(じかぼり) 10円金貨併 ​用極印(こくいん)​ サイズは29.42mmくらい?

​現在の硬 貨の極印(こくいん) 造幣工場内で展示されているもの。

​​熔解(ようかい)→熱間圧延(ねっかんあつえん)→面削(めんさく)→冷間圧延(れいかんあつえん)→ 圧穿(あっせん)→ 圧縁(あつえん)→ 焼鈍(しょうどん)→洗浄(せんじょう)→圧印・検査(あついん・けんさ)→計数・封緘(けいすう・ふうかん)
.​​

​​そもそも ギザや穴の主な目的は目の不自由な人が手触りで判別できるようにする事で あったそうだ。
また、10円硬貨の平等院鳳凰堂のような 細かなデザインは、当初高額硬貨であったため偽造防止の意味も含めて決められた ものらしい。

大阪天満の造幣局​ 2 お雇い外国人とコイン製造工場

驚くのは内容がかなり詳細で、アメリカは貿易の為に港を幾つか開いて欲しい。さらに中国とカリフォルニアを結ぶ汽船の為に石炭を貯蔵できる港が一つ欲しい・・と言う要望だ。
また、それにはすでに中国海域にいる蒸気フリゲート艦サスケハナ号とコルヴェット艦のサラトガ号、ブリマス号、セント・メアリ号及びヴァンダリア号がいて、彼らが使節を江戸に送るよう言われている事。
さらに、最近の情報で、遠征軍指令軍オーリック准将とペリー准将が交替する事。それに伴い中国海域の船は蒸気汽船ミシシッピ号、プリンストン号、ブリック艦ペリー号、運送船サプライ号などで増強されるだろう事。ただ上陸用並びに包囲網の資材はすでに積み込まれたものの艦船の出発はかなり遅れるだろう・・と言うもの。

​まあ、それはともかく、 重要なのは、幕府の上層は黒船の来航を事前に知っていたと言う事実 である。何も知らない市民は驚いただろうが、幕府の方は覚悟していたのだろうな・・と言う事が解った事だ。実際ペリーの来航は翌年である。
だから​ ペリーの艦船が来ても慌てずに武力行使する事もなく、幕府側が艦船を誘導して浦賀に接岸させたのだろう。​
※​​ 2020年11月「2020年京都 3 (清水寺 2 舞台)」の冒頭で「オランダ風説書」の事を書いています 。
リンク ​2020年京都 3 (清水寺 2 舞台)​

​​とは言え、艦船の脅威を見ても開国反対派はまだたくさんいた。幕府内は揺れ動く事になる。
薩摩藩や長州藩などは大政奉還(たいせいほうかん)よりも前に藩士らを留学させている。
また幕府の方も外国奉行 池田 長発(いけだ ながおき)(1837年

大阪天満の造幣局​ 2 お雇い外国人とコイン製造工場

​ペリー来航予告情報​(オランダ風説書)
​ゼロからの造幣局​
オリエンタル・バンクとお雇い外国人
​お雇い外国人キンドル、ブラガ、ガウランド​
長州五傑(長州ファイブ)
​薩摩藩士 五代友厚(ごだいともあつ)​
コイン製造の為の機器とコイン製造工場

​ 1853年7月、黒船が来航
​1858年6月、日米修好通商条約でメキシコ銀ドル貨幣との両替レートが決定。
1867年(慶応3年)11月、大政奉還(たいせいほうかん)
​1868年(明治元年)、政府は造幣工場の建設を決定。​11月には建設が開始される。​

​驚くのは 大政奉還した翌年には造幣局の建設を決めている 事だ。​

1885年) をおぼえているだろうか? 当事、大阪運上所(現在の大阪税関)の所長であった彼がその創建時、 トーマス・グラバー(Thomas Blake Glover)(1838年

​設計監督はグラバーの紹介で 英国人のT.Jウォートルス(Thomas James Waters)(1842年

1898年) が決まる。 ​彼は煉瓦造り、煉瓦積み、ペンキ塗りなど言葉の通じない邦人職人を熱心に指導。​​

​ 造幣局の建設にしても、設立後の指導にしても、また、他の分野においても、 日本国は多くの外国人の専門家から教えを請うことになる。 そもそも何を成さなければいけないのかもわからない状況の中、明治の新政府は、よくぞやりきったものだと思う。

​1869年(明治2年)、 明治政府はオリエンタル・バンク(Oriental Bank Corporation)と条約を締結。造幣局の建設から創業に関するあらゆる人材をオリエンタル・バンクが調達 している。

​その オリエンタル・バンク(Oriental Bank Corporation)は1841年インドのボンベイで創設された英国の植民地銀行であり、支局香港では初の銀行でもあった。

​ つまり、 江戸幕府の時代から日本は借金があり、オリエンタル・バンクは。 幕末、明治期に日本の国債発行を積極的に行ってくれた銀行であり、 明治初期の日本国のメインバンク だったのである。

​ 当時1 円=金1.5g=1ドル 。因みに近々の金のレートは1gおよそ5000円。​

大臣、次官クラスが500~800 円、局長クラス200~300 円、職工で5 円前後の中、 ​お雇い外国人は局長クラス以上の月給。特に造幣長としてヘッドハントされたキンドルは​破格値だった​。

​キンドルこと、トーマス・ウィリアム・キンダー(Thomas William Kinder)(1817年

​​​​​​​​元香港造幣局長。1870年(明治3年)に来日して​​​ 造幣寮の首長に任命されたキンドルは大阪造幣寮の建設・機械据え付けなどを指揮した重要人物 ではあるが、​その給与は当事の ​太政大臣(現在の総理大臣)の月給800円よりも高い月給1045ドル(1045円)。​ それは破格の待遇で迎えられた事を意味する。​​​

​​​※ フリーメイソンは 2020年9月「 2020.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソン 」 ​で紹介しています。​
リンク ​2020.9 クイズ 「このロゴは何 ?」​

​​V.E.ブラガ(Vicente Emilio Braga)(1840年

​​ 造幣局の会計事務を整え1875年(​明治8年)大蔵省に転じ官庁会計全般の指導にあたる。いわば日本の会計の父である 。20年、神戸に在住。​初代ポルトガル日本領事となっている。
.
​ガウランドことウィリアム・ゴーランド(William Gowland)(1842年

​1872年(明治5年)、大阪造幣寮の化学兼冶金技師として着任。 英国式反射炉の築造と操業を指導。
造幣寮のお雇い外国人は通常3年契約で帰国する者が多いなか16年在職して貢献 。​1881年(明治21年)解雇。

​それは 温厚で人望も厚かった人柄 ゆえなのだろう。勲章や褒賞も与えられている。​

​​ブライベートでは古墳研究や地質の調査をして 日本考古学の父 と呼ばる研究者でもある。
また日本に近代登山を紹介 。「日本アルプス」の命名者 でもある。​​

​他にも金銀地金及び貨幣の分析に当たった ツーキー(Charles Tookey )は貨幣の信頼を担う「製造貨幣大試験」の第一回試験方(明治5年5月)を努めている。1873年(明治6年)解雇。​

​​​機械技師の マンチニ(Napoleon Mancini )​は 、前回紹介した造幣局を描いた人でもある。1877年(​明治10年)解雇。
鍛冶・鋳造所の改築を設計監督した マクラガン(Robert Macklagan )​​​らがいた。

​ところで、「お雇い外国人」から技術指導を受ける為には語学ばかりか、工学の知識も必要。
その為に 1872年(明治5年)、学校(日進学社)も開設され職員や子弟の教育も行ったと 言う。​

​​​​ 井上馨(いのうえ かおる)( 1836年

1915年)長州藩士。 2代、4代、7代造幣頭 。初代外務大臣。
遠藤 謹助(えんどう きんすけ)( 1836年

1893年)長州藩士。 10代造幣局長( キンドルを解雇して復帰)。​​​
井上 勝(いのうえ まさる)( 1843年

1910年)長州藩士。 3代造幣頭 。大蔵省に勤務してから鉄道敷設を推進。日本の鉄道の父。

​​​​ 伊藤 博文(いとう ひろぶみ)( 1841年

1909年)長州藩士。 6代造幣頭 。初代・第5代・第7代・第10代内閣総理大臣に就任。

​​ 山尾 庸三(やまお ようぞう)( 1837年

​彼ら長州ファィブの5人、は1863年5月渡英。 ​井上馨(いのうえ かおる)の発案で密かにロンドンに留学。国力の違いに驚愕。開国論に転じたと言う。​

※ 留学に際して使われたのが(元 東インド会社)ジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings Limited)の船チェルスウィック号で密航し上海でホワイト・アッダー号に乗り換えて渡英。

​​ 薩摩藩士 五代友厚(ごだいともあつ)( 1836年

1869年)では倒幕軍(薩摩藩 、長州藩、土佐藩) として活躍 。​​

​ ​1868年(明治元年)、 新政府の元で参与職外国事務局判事掛となり 大阪に着任すると大阪運上所(後の大阪税関)の長官となる​ 。​

因みに大阪が首都にならなかったのは京都市民の大反対が大きかったのでは? 市民感情として、大阪より東京の方がまだマシだったのか? 前にも紹介したが実際の所、東京に遷都(せんと)されたのではなく、奠都(てんと)と言う言葉が使われているし・・。

​※ 2020年6月 「 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)」の中「奠都(てんと)と遷都(せんと)」 ​を紹介。​ ​


ドイツ、シュラー(Schuler)社製。圧印能力150t。
現在の圧印機では1台につき一分間に750枚生産。500円高価にして37万5000円。
1台の生産枚数は272000枚。金額にして1億3600万円。
高額なお金を造る事になるので、工場内は巨大な金庫にもなっているそうだ。​

​​​​
資材の運搬には鉄道馬車が必要 であったし、 地金の運搬の為には蒸気船の必要 があった。
電報が使えるように 架線がひかれ電信設備も整えられ、精製や照明の為のガス製造窯や、コークス窯も造られた。
金銀の分離精製や貨幣の洗浄には硫酸が必要で、 工場内に硫酸製造所が造られる 。さらに硫酸ソーダや炭酸ソーダの製造も始まる。​​​​

​​​ 小さな機器のほとんどは工場 内の銅細工所、ろくろ所、鍛冶所で造られ、時計や秤、 工場を建設するレンガも焼いて造ったらしい。
また、 帳簿をつける為のインクなども当初は自前で手作り していたらしい。​​​

当然そこにはお雇い外国人の指導があった。が、そのお雇い外国人を感心させる素晴らしい職人もいた。
オランダ留学の経験もある大野規周(おおののりちか) (1820年

​工場では、 熔解(ようかい)→熱間圧延(ねっかんあつえん)→面削(めんさく)→冷間圧延(れいかんあつえん)→圧穿(あっせん)→圧縁(あつえん)→焼鈍(しょうどん)→洗浄(せんじょう)→圧印・検査(あついん・けんさ)→計数・封緘(けいすう・ふうかん) と作業が行われている。​

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コイン製造過程も写真のせる予定でしたが終わります。
Part3 or Break Timeの形で「ギザ」の話や「ギザ10」の製造枚数等を紹介する予定。

​大規模ネット障害に関して​

​​
現在も続いている 日本全国で起きているシステム障害は、対処できた人は復旧できていますが、放置していては戻らないかもしれません。
実際、私は朝になっても戻っていなかったので プロバイダーからソフトをダウンロードして復旧 させた一人です。​​

​繋がっていないネット回線ですが、 電話回線が生きている人の場合、自分のパソコンからプロバイダーにアクセスしてソフトをダウンロードする事が可能 なのです。​

そして 検索マークではなく、→マークをクリック すると​直接サイトに飛びます。

​つまり ダウンロードで問題は解決できますが、契約のユーザーIDとパスワードが解らないとお手上げ です。 ​

それをブロックしていたわけですが、それを突破されての攻撃だとしたら、これから他のサイトでもいろいろ起きるかもしれませんね。
.
早い所では昨日の昼過ぎから障害が発生したそうです。うちの場合は、20時頃からです。
何度もルーターをリセットしながら続けましたが、5分で切れてしまう。それを23時頃まで続けてなんとかブログの方はほぼ完成したのにその後、2度と繋がらなくなったのであきらめて寝ました。

秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)

一昨日病院に付き添い。実家行きが続いたので疲れてグッタリ。なかなか取りかかれませんでした m(_ _;)m

そんなわけで今回は ​「大阪天満の造幣局​ 2」はお休みしてショートネタ。​ 造幣局で見つけた豊臣秀吉の金の話を単独にしました。

​​冒頭紹介した川からの拾いものの金塊であるが、 竹流金(たけながしきん)は 文字通り竹のような鋳型に砂金を流して造られているのでそう呼ばれているが、 室町時代末期から安土桃山時代にかけて作られた秤量貨幣(ひょうりょうかへい) の一つだそうだ。

​一方、 菊桐金錠(きくきりきんじょう)の方は重さの一定したナゲット だったらしい。

​​ しかし、 その紋は、正確に言えば五三桐(ごさんのきり)と十六葉菊(じゅうろくようぎく) なのである。これは 織田信長の使用した家紋の中の二つにあたる 。​

1593年)時代の頃、豪族や大名らが、備蓄の軍用金として鉄砲や火薬など武器の支払いや、人を雇う時などの賃金として使う目的でストック。 時に武功をあげた家臣の恩賞などにも利用されていた金竿 らしい。

※ 平の家臣には一削りとか? 今日はたくさん削ってもらえて嬉しい・・とか? かな?

​秀吉はいろんな物を信長から継承 しているので竹流金(たけながしきん)のルーツが信長にあった可能 性はあるが、菊桐金錠(きくきりきんじょう)のような重量の固定されたナゲットは秀吉の頃からかもしれない。​

​何しろ、 秀吉は何かとこれら金を大名や家臣(配下の武将)や朝廷の貴族らに配りまくっている ​からだ​ 。​

​ それらは秀吉の下に彼らをひれ伏させる事は当然、 秀吉の行う事業を円滑にする為の文字通り試金石(しきんせき) になったのだろう。

​かくして、 鉱山開発が進められると、そこは直轄領とされ、全ての金、銀、銅は秀吉の元に集まるシステムが造られた のだ。​

​大事な事を紹介し忘れていたが、前回 、 ​両替秤用分銅で紹介した 後藤四郎兵衛家であるが、分銅のみならず、金の造作(大判造りなど)も後藤家が行っていたのである。​ ​

※ 江戸に出たのは ​後藤四郎兵衛家ではなく分家? の後藤(橋本)庄三郎らしい。​

​​ 大判2000枚で造られた二千枚分銅金(約330kg) と言う ​​巨大な金塊「大法馬金」と

​戦争となり、城を守ったり戦に出る時の軍資金であり、通常は使ってはいけない。・・と言う意味で、 非常用の備蓄金 と言う事のようです。

6枚と言われるこの大判もまた 後藤四郎兵衛家の作品。
無名の大判に埋め金して量目を調整してあるそうだ。

見るからにこれは造りがチープですが、黄金の茶室は運搬可能な組み立て式の移動式茶室だったようです。看板にはGolden Tea Ceremony Room (Chashitsu)と書かれてました。

蔵の中でずっと眠っている法馬金よりも金の茶釜はみんなの目を楽しませてくれる。金の茶釜も金の茶室も贅沢と言うより話のネタ? 単純に秀吉の遊び心? だったのかもしれないなーと・・。

​総じて思ったのは 秀吉が金が大好きだったと言うより、金を利用して宣伝効果をあげていたと言う方が真理なんじゃないのか? と言う事です。​

大阪天満の造幣局​ 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局

※ 外国為替証拠金取引 FX(Foreign eXchange)をする人はその差益で利益を上げている。

​ 固定相場制は第二次大戦後 、1945年、国際間の通貨安定の為に国際通貨基金 IMF(International Monetary Fund)の始動と共に各国が採用。​

大阪天満の造幣局​ 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局

​なぜなら、以前紹介しているが、オランダ は日本から純度の高い銀を持ち帰ってVOC用のコインを鋳造していた。 そしてそれがアジアでの交易用のコインとなり長く流通。一番​求めていたものは銀だった。

​※ ​2020年11月「デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)」​ の中で書いています。

​ ​​ 1853年7月黒船が来航 し 、日本も鎖国を解き、欧米諸国とも貿易を始める事になるとやはり為替レート(exchange rate)を決めなければならなくなった。 ​​​

1857年(安政4年) 量目 26.8

日米修好通商条約 5条では「外国の諸貨幣は、日本貨幣、同量、同種を以て通用すべし」とあり、この条件を以て​ メキシコ銀ドル貨幣 1ドル(1枚) = 天保1分銀×3枚 と定められた。​

天保一分銀 1837年(天保8年) 量目 8.6g 品位 銀988.6/1000

ところが想定外の問題が起きた。 ​金と銀の交換レート(金銀比価の比率)は 日本では 1金対5銀。 外国は 1金対15銀。​


因みに 江戸時代、大阪では銀が、江戸では金が主流であった。 その為に江戸から大阪に取引に来た商人は金から銀への両替の必要があった のだ。​

本局(大阪市北区天満) さいたま支局(さいたま市大宮区) 広島支局(広島市佐伯区)

我が国初の本格的西洋建築。旧明治天皇記念館の設計はアイルランドの建築技師トーマス・ウォートルス(Thomas James Waters)(1842年

構内にガス製造所が設置され石炭ガスを製造。 1871年(明治4年)の創業当時、構内と付近の街路に65基設置。工 場内621基。計686基もあった。​

※ 桜の通り抜けに関しては、昨年紹介済み。 2020年4月「大阪 造幣局 桜の通り抜け」

​​​​​月桂樹(げっけいじゅ)​​の花 雌雄異株​​​​

さかのぼる事、昨年(2020年5月)「 ​幸福の木の花 ドラセナ・フレグランス・マッサンゲアナ」 の紹介をしましたが、その直後に今度はベランダに置いていた月桂樹(げっけいじゅ)に花芽を発見。

これはまたまた植物ネタか? と思ったのですが、花芽はそのまま夏を越え、秋を越え、冬を越えて3月に入るまで休眠状態? 花芽が出てから開花までに10ヶ月を要したのでした

​学名 Laurus nobilis 「高貴な常緑樹」​

Angiosperm Phylogeny Group (APG)(被子植物系統群)

​​・・精油を含み、芳香をもつ種が多い。
Laurus(ゲッケイジュ属)
L.nobilis(ゲッケイジュ)

​ 単性花のうち雄花と雌花が同一の株につくタイプを雌雄同株(しゆうどうしゅ) と呼ぶ 。
​一 ​方​​月桂樹のように​

​​つまり 雌雄異株(しゆういしゅ)​(Dioecy)は自己受精を排除し、同種異系統(異系交配)を促進 する方法の1つで、 集団内に存在する劣性の有害な突然変異の発現を減少させる ​のだそうだ​ 。​

花芽の時に剪定していたか? いやいや花芽が10ヶ月もあったのだから間違って切り落とす事はないだろう。
次も10年後なのだろうか?

一つの花芽は1cm。花蕾に別れて一つの花自体のサイズは5mm程度。その中の雄しべは1mm以下。
一つの花蕾に、花は6個。 花びらは4枚。 雄しべは10本。

​​​​​ところで、 雌雄異株(しゆういしゅ)の木 は実は珍しくない。案外身近にありました。​

​ ※ 2020年6月「アスパラガスの木 「クイズ これは何でしょう? 」 解答編 」で紹介。​

​イチョウ目イチョウ科イチョウ属 イチョウ (銀杏はメスの木に成る) ​

※ 日本のポプラはほぼオスの木らしい。
キントラノオ目ヤナギ科 キヌヤナギ
クスノキ目クスノキ科ハマビワ属 ​カゴノキ​

クスノキ目クスノキ科ハマビワ属 ハマビワ
クスノキ目クスノキ科クロモジ属 ダンコウバイ、 シロモジ、 アブラチャン
クスノキ目クスノキ科シロダモ属 ​シロダモ、イヌガシ、ダイトウシロダモ​​​​

イチイ科イチイ属 イチイ
ガリア目ガリア科アオキ属 アオキ

ローリエ(Laurier)はフランス語で、ベイリーフ(bay leaf)は英語。
​ローリエ(laurier)は、月桂樹の葉を乾燥させた香辛料。​

​その葉は、オリンピックなどの勝者に贈る月桂冠のリースで有名であるが、 葉に含まれる精油の効能から薬用や料理に古来から重用されてきた香辛料 である。​

​ 葉の成分に含まれるシネオール (cineol)、リナロール(linalool)、オイゲノール(geraniol)などのエッセンシャルオイルに効能がある ようだ。​

特に葉の45%に含まれる ​シネオール (cineol)別名ユーカリプトール(eucalyptol)​ ​は​

※ シネオール (cineol)はヨモギ、バジリコ、ニガヨモギ、ローズマリー、セージなどの葉にも含まれる。
※ ​​シネオール (cineol)の含有量の多い葉ほど高品質だそうだ。​

​​ リナロール(linalool) はフレーバー、フレグランス両方の香料原料として使用される。
オイゲノール(geraniol) もフレーバー、フレグランスに加え、殺菌剤や麻酔薬などの医薬品に用いられる。​​

​性別記号(gender symbol)​
元々は♂は火星、♀は金星を表す天文学や占星術で使う記号だった。

スウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネ(Carl von Linné)(1707年

​​​ 金星を表す記号は、雌記号 ♀ (Venus)。
元はローマ神話の 美の女神ウェヌス(ヴィーナス)の持つ手鏡を図案化したもの ? らしい。​

​.
火星を表す記号は、雄記号 ♂(Mars)。
元はローマ神話の 軍神マルスの持つ盾と槍を図案化したもの 。

ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー

​ 前回の「ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection) 」で紹介したようにノイシュヴァンシュタイン城は、ドイツ、オーバーバイエルンの美術品や図書などの集 積所としてナチス支配下で使われていた時代があった。
確かに城塞型で近辺が一望できるこの城の存在はナチスにとっても好都合な場所だったのだろう。

リンク ​ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)​

ルードビッヒ2世の理想の城はニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg)のような平城(ひらじろ )の居城ではなくどちらかと言えば中世の防衛型城塞が意識された山岳の城なので・・。

そこに父の影響もあったのかもしれない。
ルードビッヒ2世が青年時代に過ごした彼の父(マクシミリアン2世)が建てたホーエンシュヴァンガウ(Hohenschwangau)城も城塞型であった
※ どちらも古い城跡の上に再建されている。

しかし、城の内部は城塞とは遠く、どちらも当事流行のロマン主義が色濃く出た装飾がされている。
マクシミリアン2世のホーエンシュヴァンガウ城は中世の騎士や英雄伝説の絵画や壁画で飾られている。
共に中世を意識する所は同じであるが、 ルードビッヒ2世のノイシュヴァンシュタイン城は同じ中世でも、ほぼワーグナーのオペラの内容に特化している。つまり創作性が高いのだ。

当然その装飾の仕様も今までの一般的な 城のインテリアとは全く違う。どこにも無いタイプなのだ。
各部屋にテーマもあるが、それら装飾は例えるなら舞台装置の様相である。
実際、 ノイシュヴァンシュタイン城内のデザインをしたのは城郭の専門家ではなく、舞台装置画家(クリスティアーン・ヤンク) だった というのだから納得だ。
※ ホーエンシュヴァンガウ城とワーグナーについては、2020年2月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」で少し紹介。

ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー

城の建築で受けた地元の恩恵
未完の城
歌人の広間とタンホイザーとパルジファル
ルードビッヒ2世の寝室、トリスタンとイゾルデ
ルードビッヒ2世の執務室 タンホイザー
ルードビッヒ2世の個人礼拝堂 聖王ルイ9世
城の建築費

城部門でも、観光全般でも上位に入るのがノイシュヴァンシュタイン城である。
毎年約140万人が訪れると言う。(夏期は、1日平均6000人以上の訪問者があるらしい。)
それ故、見学も一応予約制になっている。
だいたい40~50人くらいのグループでまとめられて移動。城内をかってに見学する事はできない。

1869年9月5日城の礎石が置かれる。
※ 岩山を8m程 爆破して低くし、給水と道路を確保した上で礎石は置かれた。
※ 設計は王室建築局の監督、エドゥアルド・リーデル(Eduard Riedel)(1812年~1885年)。

1869年~1873年に城門館が建築。
1873年~本丸の王館に着手
1883年には1,2,4,5階が仕上る。
1884年春には4階の王の住居部は完成 。

1884年5月27日~6月8日 ルートヴィヒ2世(Ludwig II))(1845年~1886年)城に初滞 在。
1886年6月13日に亡くなるまでのおよそ2年間に城に滞在したのは172日 間 であった。

※ ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13 日)

前に紹介した琵琶湖疏水工事の環境を考えると日本とは比べものにならない文化レベルの高さである。
※ 琵琶湖疎水は1885年(明治18年)~1890年(明治23年)(第1期)ほぼ同時期に建設されている。
※ 2020年6月「琵琶湖疏水 2 (蹴上インクライン)」で書いています。

また、 この時代としては革新的だったのが1870年4月「ノイシュバンシュタイン城建設に従事する職人協会」と言う社会制度ができていた事 だ。

テラスより上が「歌人の広間」と呼ばれるホール部分。
その下の階がルードビッヒ2世の居室のある階。
たぶん見える窓は左がクローゼット。

部屋 の装飾はワーグナーのオペラからテーマが選ばれている 。
城内の撮影は禁止されているので直接の写真は無いが、参考までに城で買ったテキストから写真を拝借。
そもそも印刷が悪いので写りも悪い ですが・・。

歌人 の広間とタンホイザーとパルジファル
欧州では10世紀頃より吟遊詩人らによる散文詩の歌が歌われ流行している。
ドイツではヴァルトブルク城の歌合戦が有名で、ワーグナーはそれに着想してオペラ、タンホイザー(Tannhäuser)を書き上げている。
※ タンホイザーの正式名称はタンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)である

広間はヴァルトブルグ( Wartburg )城の祝祭会場と歌人の広間を参考にしていると言うが・・。
とは言え、このアラブの意匠の入った不思議な装飾はワーグナーがルードビッヒ2世に捧げた とされるオペラ「パルジファル(Parsifal)」に由来している?

パルジファル(Parsifal)
聖杯と聖槍とそれらを守護する騎士団が登場。
アラビアの異教徒クリングゾルは魔法と妖女クンドリーを使ってアルフォンタス王を誘惑。
王は聖槍を奪われたばかりか重傷を負う。

王を救えるのは清らかな愚者。
そこに現れた青年パルジファル(Parsifal)。でも彼は事情が飲み込めていない。
二幕ではクリングゾルはパルジファルを誘惑するが失敗して聖槍をパルジファルにとられてしまう。
三幕ではパルジファルが聖槍を持ってアルフォンタス王の前に進み傷を治すと聖杯の騎士に列するる事を誓う。

パルジファル(Parsifal)はルードビッヒ2世に求められて書かれたらしい。
第一草稿は1865年に完成して国王に贈呈するが全草稿が完成するのは1877年。
それから作曲が始まり初演は1882年、バイロイト祝祭歌劇場である。

聖杯伝説も乗っかったいかにもルードビッヒ2世が好みそうなストーリーである。
苦悩する新王はルードビッヒ2世の事なのか?
あるいは聖杯の騎士こそが王なのか?

ルードビッヒ2世の寝室、トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)

王の身長は191cm。思ったより大きいベッドである。
眠りと死は同一?
キリストの復活が描かれていると言うが、このベット、祭壇とか廟(びょう)にしか見えませんね

トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)を読む婦人

寝室のテーマはトリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)。それはケルト伝承の散文が後に欧州に広まった物語。
簡単に言えば悲恋の物語である。
いかにも女性が食いつきそうなお話である。それを寝室のテーマに使った王は乙女か?
※ トリスタンはアーサー王伝説の円卓の騎士に連なる騎士。でも「トリスタンとイゾルデ」は別の話。

テーマは先ほど広間で触れたタンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)である。
壁絵はJ・アイグナー( J Aigner )

タンホイザー(Tannhäuser)
舞台は13世紀
吟遊詩人タンホイザーは恋人がいるにもかかわらず、ヴェーヌス山で愛欲に溺れる。
やがてその生活に飽きると、その世界は消え現実に帰還。

地上ではヴァルトブルク城で歌合戦が行われる。お題は「愛の本質」。
そこで恋人エリザーベトとも再開。しかしここでタンホイザーは過ちをおかす。
非現実の世界で愛欲に溺れていたタンホイザーの「愛の本質」は(精神的な)純潔な愛ではなく、(肉欲的な)快楽の向こうにある愛。

皆の非難を受け 、法王に許しを請う為にローマに巡礼する事になった。
が、結局許してもらえず自暴自棄になったタンホイザーは再びヴェーヌス山に逃げようとしていた。
一方、タンホイザーを想う恋人エリザーベトは自分の命を差し出して彼の贖罪を願っていた。

1270年)
※ 聖王ルイ9世については2020年2月に以下書いています。
「フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)」
「フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)」

ワーグナー(Wagner)に捧げげたとも思える城ではあるが、この城が寝泊まりできるようになる1年前(1883年)にワーグナーは亡くなっている。
※ ヴイルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)(1813年~ 1883年)

城の建築費
ところで城の建築費であるが、王は国税を直接使ったわけではない。
王の私財と王室費(国家君主の給料)から城の建設費を支出 している。

とは言え、その資金だけでは十分ではなく、 ルードビッヒ2世は多額の借金をしてまかなっていた 。
※ 官僚が度々王に支出削減を進言していたのはこの借金の事らしい。

しかし、 王の借金は、王の死後に家族から返済されている そうだ。
だから王の贅沢で国を破綻させたと言うのは誤りらしい。

若き王は政治に絶望し、人に裏切られ、個人攻撃され、すっかり人間嫌悪に陥って行ったようだ。
なぜ城を造ったのか? と言う答えは明確になされていないが、王侯なら、城の一つや二つ造るのは自然な事だったらしい。
そもそもドイツやオーストリア圏では冬の住まい(宮殿)と夏の住まい(宮殿)は別である。
それぞれに立派な宮殿を持っているのが常識。

王の造った城の中でもこのノイシュバンシュタイン城はまさしく彼が夢の中に逃避するのにピッタリの城であったのは間違いない。
が、せっかく造った城 なのに172日間しかいられなかったなんて気の毒過ぎ もっと居て、城を完成したかったろうに・・。
そう考えると、何だか今も王の魂はこの城にありそうな気がしてきたゾ

さて、これでノイシュバンシュタイン城おわりますが、ルードビッヒ2世に関するバックナンバーがこれで一応完成しました。
2020年02月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)」
2020年03月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬」
2020年03月「ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー」
2020年07月「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)」

ルードビッヒ2世が生まれた離宮と彼の乗り物
2020年08月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)」
2020年08月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)」
2020年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)」
2020年09月「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)」

ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)

ノイシュヴァンシュタイン城 2」の予定でしたが冒頭の書き込みで横道にそれました
ビュールレ・コレクションについて国 立新美術館の学芸員が書かなかった事を書いてみました。

ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)

オーバーバイエルンの集 積所(ノイシュヴァンシュタイン城)
略奪美術品
退廃芸術展と後に売りとばされた絵画
退廃美術オークション
ビュールレ(Bührle)の兵器会社
ビュールレ・コレクション(Bührle collection)
国立新美術館ビュールレ・コレクション (Bührle collection)展
ベルジェ・レポート(Bergier Report)

オーバーバイエルンの集 積所(ノイシュヴァンシュタイン城)
ふと思った。ノイシュヴァンシュタイン城は大戦の戦火に巻きこまれる事は無かったのだろうか?

が、しかし、 城は1944 年まで、アドルフ・ヒトラー ( Adolf Hitler)(1889年~1945年) 率いるナチス (国家社会主義ドイツ労働者党) に占領されていた時代があった 。

全国指導者(Reichsleiter) アルフレート・ローゼンベルクの指導下で行われていた略奪美術品や図書等のオーバーバイエルン主要集積所として城は使われていた 過去があった のだ 。
※ アルフレート・ローゼンベルク(Alfred Ernst Rosenberg)(1893年~1946 年) はナチスの最高幹部の一人。
※ ナチスの支所や集積所として、他にも城や修道院が利用されている。

この全国指導者 アルフレート・ローゼンベルクこそが、最初に退廃芸術の一掃(いっそう)を叫んだ男である。

略奪美術品
ナチス時代の美術品については以前、2020年2月「ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション」でもちょっと紹介しているが、近年になって、武器商人エミール・ゲオルク・ビュールレ(Emil Georg Bührle)(1890年~1956年)のコレクションも略奪美術品が多数含まれているのではないか? と問題になった。
※ ビュールレ・コレクション財団によれば、一部それは返還して買い戻しを行ったと言う事だが・・。
※ ビュールレ・コレクション展が現在六本木で開催中。後で紹介。

.
そもそも略奪品とは何か?
それは ナチスが占領下で美術館や個人から強制的に奪い取った膨大な美術品の数々である 。

当初、それは確かに思想上の理由での 退廃芸術の一掃が目的であったと思われるが、後にナチス占領下のユダヤ人達からの強制略奪も始まる。
※ 「略 奪品」の範囲を「ナチスのせいで仕方無く手放した品まで含めるべきだ」と論争が起きている。

近年になり、当事美術品を奪われたユダヤ人被害者らから返還要求訴訟が次々起きているし、美術品ではないが、アメリカのユダヤ人協会がホロコースト犠牲者のスイスの休眠口座にある預金の返還を求める集団訴訟をスイスに起こしている。
※ スイスではこれにより ベルジェ・レポート(Bergier Report)なるものが発表され社会に影響を与えた。

退廃芸術展と後に売りとばされた絵画
ナチスがプロパガンダの為に行った歴史上悪名高い「退廃芸術展と大ドイツ展」がある。

ナチスが嫌ったのは印象派以降の近代芸術全般。モダンアート(modern art) である。
それらは精神の不調と堕落の象徴と考えられた。
美術を勉強していたヒトラー自身が理解できなかったのが大きな要因であろう。

相対するこの展覧会を企画したのは宣伝全国指導者パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels)(1897年~1945年)である。
※ これに大いに協力したのが画家でナチスの造形美術部門の責任者に任命 されていたアドルフ・ ツィーグラー(Adolf Ziegler)(1892年~1959年)。

この退廃芸術展の為に、ドイツ国、州、市町村が所有する 1910年以降の退廃芸術作品を展覧会の目的で搬出(押収)できると言う権利がアドルフ・ ツィーグラーらのメンバーに与えられた。

ベルリン。ハンブルク、マンハイム、デュッセルドルフ、フランクフルト、ドレスデン、など 20ヶ所以上の美術館を訪問し、ポスト印象派、表現主義、新即物主義、幾何学的抽象などの作品を押収。
押収された美術品は絵画5000点。版画12000点。

ナチスの嫌った画家から マルク・シャガール(Marc Chagall)

シャガールとピカソは第二次大戦のドイツ軍のパリ占領の時に対象的な行動をしている。
ユダヤ人だったシャガールはパリに荷物を残し故郷に逃げた。(置いて行った絵は全て没収)
※ 帰国した後にシャガールは全く同じ絵を描いたとされる。

ナチスの嫌った画家から パブロ・ピカソ(Pablo Picasso) 花とレモンのある風景

ナチスの嫌った画家から パブロ・ピカソ(Pablo Picasso) イタリアの女

1937年7月19日、ヒトラー臨席のもとミュンヘンで「退廃芸術展と大ドイツ展」が開幕。
入場者はナチス奨励の「大ドイツ展」が3ヶ月で70万人なのに対して「退廃芸術展」では1日2万~3万人。多い日で4万人の来場があった。
最終的に排除される方の絵画のほうが4ヶ月で200万人超えると言う人気。

この 巡回公演の為に、ドイツ全土から退廃芸術を一掃すべくさらに100以上の美術館から美術作品が押収された 。
しかもこの巡回の途中の 1938年、「 押収美術品を 自由に処分できる」とする法律が公布 された。
これにより展覧会用に各地の美術館から「預かる」形で押収されていた 美術品17000点は正式に国家に没収される事になる 。

それら作品は、最初にナチスの高官らが没収。
ヘルマン・ゲーリングはゴッホ、セザンヌ、ムンクなど13点を取り置きして持ち帰ったと言う。
次に 売れる作品は売って外貨を獲得し軍備の費用にあてることになった 。
そこに退廃美術オークションなるものが始まる 。

因みに高額では売れない美術品はベルリンの倉庫に押し込まれ、後に 宣伝省のホフマンから「売れない作品は、国民の前で見せしめとして盛大に焼き払いたい」との圧力があり1939年3月20日、ベルリンの消防署の庭で焼き払われたと言う。
※ 実際は、美術品のほとんどが先に宣伝省の職員や画商らによりベルリン郊外のニーダーシェーンハウゼン城に避難させて、売買や交換、オークションへと流れたらしい。

退廃美術オークション
ナチスは退廃芸術と認定したが、すでに印象派の絵画は欧州ばかりかアメリカでも人気急上昇となっていた。
特にベルリンのナショナルギャラリーの館長ルードヴィヒ・ユスティ(Ludwig Justi) (1876年~1957年)(館長職1909年~1933年)はナチスに解雇されてしまうが、彼には先見の目があったようだ。どこよりも先駆けて近代絵画の購入を始めていた。
それが余計にナチスの気にさわったのだろう。退廃芸術展では購入金額を記載され、いかにつまらない作品に税金がつかわれたかのアピールに使われる。

だが、市場では印象派 やポスト印象派の絵画が高く売れることが期待された。
ナチスによってけなされた作品をナチスが高く売るわけにはいかない。売買はメンバーの中にいた画商たちにゆだねられ、国外で売られたようだ。
※ 中には交換など軍との取引もあったと思われる。

因みに、 コレクション展の行われた3ヶ月後、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランド侵攻し、その2日後にフランスとイギリスがドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦(1939年~1945年)が始まったのである 。
ナチスが外貨を獲得したかった理由がわかる、

ビュールレ(Bührle)の兵器会社
エミール・ゲオルク・ビュールレ(Emil Georg Bührle)(1890年~1956年)は印象派の初期個人コレクターとして有名なようだが、スイスに渡り武器商人として成功した金持ちである。

もともとドイツで生まれた彼は第一次世界大戦(1914年~1918年)で招集され敗戦前(1916年)のドイツでは マシンガン部隊の指揮官(中尉) として前線で活躍。戦後も部隊に残留。

銀行家の妻の父は当事マクデブル工作機械社(Magdeburg Werkzeugmaschinenfabrik)の株主であった事からビュールレはその子会社に出向。
そして1924年にはマクデブル工作機械社が買収していたスイスの工作機械会社「エルリコーン(Werkzeugmaschinenfabrik Oerlikon)」のCEOに就任する。
ビュールレがCEOになるとすぐにエルリコーン社はドイツの会社から20ミリ機関砲砲の特許を獲得。

第一次大戦の敗戦国であるドイツでは再軍備が厳しく規制されていた関係もありドイツの軍事関係の技術の多くは近隣の中立国に移されはじめていた。
※ 実はスイスは永世中立国として宣言しながら現在に至りかなりの武器輸出国なのである。

エルリコーンが買った 20ミリ機関砲の技術はさらにここでバージョンアップされる。
その資金援助をしたのも実はドイツなのである。
※ 考えようによってはドイツはスイスに兵器工場を移したと言うことかも・・。

その完成度を増した20ミリ機関砲 (20-mm-Oerlikon-Kanone)は 世界から注文が来る。
スイス軍ももちろん重要な得意顧客であるが、中国の蒋介石(しょう かいせき)(1887年~1975年)は120門発注。
エルリコーン 大砲(Die Oerlikon-Kanone)は、当初は対戦車銃としても提供されたが、航空機搭載機兵器や軽戦闘機としては特に輸出のヒットとなったそうだ。

1929年に義理の父エルンスト・シャルク(Ernst Schalk)がマクデブル工作機械社の筆頭株主なると販売権はドイツ、イタリア、日本にも及ぶ。
そして欧州(フランス、イギリス、ベルギー)から大口発注が入り南アフリカとも対空砲の契約を結ぶ。

時代はナチス・ドイツが台頭してきた頃。
ドイツはナチスの元で再軍備を開始していた。
つまり ビュールレの会社エルリコーン(Oerlikon) はドイツがあってこそ、そしてナチスの時代(1933年~1945年)に拡大成長したスイス 大手の兵器会社なのである。

この会社は第二次大戦で敵対する双方の国々に開戦前に兵器を納入している。
第二次大戦(1939年~1945年)が勃発して 1940年にドイツによるフランス占領が開始されると、さすがにフランスとイギリスへの武器の納品ができなくなる。
するとスイス政府はドイツへの武器、弾薬の供給を奨励したと言う

スイス政府がドイツへの兵器の輸出を完全禁止を決定したのは1944年。終戦( 1945年)の1年前である。
よって エルリコーン(Oerlikon)社は連合国軍のブラックリストに乗る事になる 。
※ 1946年には解除されている。

※ 上記、ビュールレ(Bührle)の経歴に関する細かい資料は国立新美術館で今回出したビュールレ・コレクションの為の公式図録による。

国立新美術館ビュールレ・コレクション(Bührle collection)展で唯一撮影が許可されている目玉の壁画
200cm×425cm
スマホで撮影しているのでちょっと斜めっています

下の2点は部分を撮影。モネの睡蓮はトリーミングのしなおしにより別作品になる。
とは言え、よくよく観察すると、どの睡蓮もほぼ同じパターンで描かれている事がわかる。
下のトリーミングした作品は西洋美術館のモネと構図が一緒だと思う。
なぜなら、この構図で私はステンドグラスを製作したので・・。

ビュールレは1951年、モネ亡き後のジヴェルニーのアトリエに行き、画家の息子ミシェル・モネからチューリッヒ美術館の為に2点の壁画を購 入。
その翌年1951年にモネの展覧会で購入したのがこの作品である。

ビュールレ・コレクション(Bührle collection)
上に紹介した「 ビュールレ(Bührle)の兵器会社」、その拡大と共にビュールレの絵画コレクションは増えて行く。
学芸員は書けなかったのかもしれないが、 ビュールレ・コレクションは、ナチスと第二次大戦を抜きに語る事はできない のだ。

ビュールレの資料に寄れば、初コレクションは1936年、ルノワールの静物とドガの踊り子の素描4点の購入から始まったらしい。
1937年スイス国籍を取得しチューリッヒに移住すると、その年に25点を購入。
※ コローなどのバルビゾン派とクールベ、モネ。ルノワールにどの印象派をチューリッヒの画商から。
※ マネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、フラゴナールをルッツェルンの画商から

1937年は先に紹介したがミュンヘンで「退廃芸術展と大ドイツ展」が開幕された年である。そして 退廃芸術展に出品された絵画はナチスの資金源となるべく画商達により国外で売り払われて行く。
※ 1935年にもプレ退廃芸術展がドレスデンであったらしい。

そして先にも書いたが、1939年にはルッツェルンのフィッシャー画廊で開かれた退廃美術のオークションに参加。
この時に知り合ったミュンヘンから亡命? した画商フリッツ・ナタン(Fritz Nathan)(1895年~1972年)は今後のビュールレ・コレクションの助言者になったと言う。

不思議なのは亡命してすぐの画商が即、スイス美術貿易協会の副会長になれるのだろうか? と、考えると彼はナチスから承認された画商だった可能性がある。
もしそうであったなら、ビュールレは非常にラッキーに作品を格安に購入できたと思われる。

公式には大戦中にピュールレは76点の作品を入手している 。
が、もしかしたら 表に出さず秘蔵している作品もあるかもしれない。
なぜなら入手方法に問題があったり、返還命令が出されては困るから・・。

実際、終戦後の 1945年、連合国軍の調査でナチスがフランスで行った略奪品がフィッシャー画廊経由でビュールレに買い取られていた事が解っているし、1948年スイス国内にある77点の美術品(13点がビュールレの所蔵)が略奪品と認定され元所有者への返還命令が出されている 。
※ 13点のうち9点は持ち主から買い戻している。そしてフィッシャー画廊に訴訟を起こしている。
※ コレクションの中にはまれに贋作もあったらしい。
※ ビュールレ・コレクションは1937年から1956年にかけて収集されている 。

国立新美術館ビュールレ・コレクション (Bührle collection)展
そんなビュールレ・コレクション(Bührle collection)がタイムリーにも現在日本に一部来ていた
六本木にある国立新美術館で2020年2月24日~5月7日までビュールレ・コレクション(Bührle collection)展がおこなわれているのだ。
※ 作品は64点。

彼の死後、財団が美術館として一般公開していたが2008年の絵画盗難事件で美術館を閉館させてチューリヒ美術館に全コレクションを移管することにしたらしい。(2020年移管。)

どうしても略奪絵画が知りたくて見に行ったものの、彼の略歴は紹介されていたものの略奪絵画どころか、ナチスの一言も書かれていなかった。
通り一遍の印象派など、絵画のジャンルなどについて書かれていたくらい。物足り無かったです

プライベートコレクションとしては、正直バーンズ・コレクションの方が見応えがあった。
※ バーンズは全体に趣味が良かった。
来日している作品にもよるのだろうが・・。何しろたった64点しかないのだ。

ベルジェ・レポート(Bergier Report)
先に少しふれたが 、永世中立国が揺らぐ大戦中のスイス政府とスイスの企業の実態がクローズアップされる事件 が起きた。

第二次大戦中にスイスがナチス・ドイツやユダヤ人にした事を検証する、いわゆる第三者委員会 ができた。ジャン・フランソワ・ベルジエ(Jean François Bergier)(1931年~2009年)率いる委員会である。

1996年から2002年3月まで、5年間かけて検証した報告書がベルジェ・レポート(Bergier Report )である。

亡命を希望した2万人以上のユダヤ人をドイツに追い返した事やユダヤ人口座を閉鎖した事。
またナチスの放出した金塊の77%をスイスが購入し、ナチスの資金源にされていた事など暴露された。
たぶん先に紹介したスイス政府がドイツへの武器輸出を奨励していた事なども含まれているのだろう。

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